好景気が続くタイ。今年8月には失業率が過去最低レベルに近い0.6%まで低下し、4月から始まった最低賃金の引き上げ策も「どこ吹く風」とばかりに企業体力の中にのみ込まれている。ところがここに来て、人手不足が深刻化してきた。さまざまな労働市場で需給バランスが崩れ、人材争奪戦が過熱している。背景には、昨年の大洪水に伴う工場移転や投資の回復、労働力を供給してきた周辺諸国の変化があるようだ。
◆引き抜き合戦
なだらかな丘陵地帯が続くタイ東北部。「イサーン」と呼ばれるこの地方で、今年夏に人手不足が顕著になった。企業の求人に対し、職業訓練学校の卒業生など求職者数が大幅に足りない事態となった。特に深刻だったのは、イサーン地方の玄関口ナコンラチャシマ県やコンケン県だ。
ナコンラチャシマ県にキヤノンがインクジェットプリンター工場を新設したのは昨年11月。当初の事業計画では15年ごろ、同工場敷地内に2棟目となる新棟を建てる予定だった。ところが昨年10月の大洪水の直撃を受けて、同様にインクジェットプリンターを生産していたアユタヤ県にあるハイテク工業団地内の工場が被災。急遽(きゅうきょ)、ナコンラチャシマ工場内に新棟を前倒しで建設することにした。この事業計画の変更により、同工場は生産能力がほぼ倍増。比例して必要な労働力も増え、求人数が求職者数を一気に上回り、周辺の他社工場との間で、激しい労働者の引き抜き合戦が繰り広げられるようになった。
ナコンラチャシマ県の北東に隣接するコンケン県でも似たようなケースがみられた。中部パトゥムタニ県ナワナコン工業団地の工場で制御機器や小型家電などを生産していたパナソニック。同工場が被災し生産停止となっていたことから、制御機器ラインの一部を急遽、コンケン工場内に移し稼働させた。400キロ以上離れたナワナコン工業団地で働いていた数百人規模の従業員に異動を打診したが難色を示す人もおり、不足分は新たにコンケン工場周辺で急募。人材不足につながった。
◆年末までに20万人
タイ投資委員会(BOI)によると、昨年の大洪水をきっかけに、標高が高く洪水の心配がないタイ東北部では日系を中心に海外企業の進出が急増。投資の件数と総額はともに昨年同期を大幅に上回り、ほぼ倍増のペースだ。今年1年間で1000億バーツ(約2690億円)以上の投資が見込まれている。
こうした傾向は、バンコクの東に位置するプラチンブリ、チャチュンサオ、チョンブリ、ラヨンの各県など高台が続くタイ東部でも同じ。パトゥムタニ県にあった半導体工場が被災した東芝では、プラチンブリ県の304工業団地内に新工場の建設を決めた。スマートフォン(高機能携帯電話)の普及に伴う世界的な需要の急増に対応するため、ディスクリート半導体の製造を進める。来春にも本格稼働の見通しだ。
タイにおける生産台数が過去最高となることが確実な自動車業界でも大洪水後の活発な投資と、それにともなう人手不足が深刻化している。トヨタはチャチェンサオ県に新たに約170億円をかけて新工場を建設。チョンブリ県でも約400億円をかけてディーゼルエンジンの生産を始める計画だ。しかし、民間の事業者団体の試算では、自動車業界の労働者不足は年末までに約20万人に達するとみられる。
その一方で、労働者確保のための措置はほとんど取られていない。BOIのまとめでは、外国企業、なかでも日系企業の進出は今年前半だけで昨年比2.4倍、一昨年からは4.6倍と急増しているが、供給労働人口はほぼ横ばいと変化がなく、十分な増加は見込めないという。建設業でも30万人の労働力が不足する見込みという。
人手不足は活発な投資だけによるものではない。タイの労働力を下支えしてきたミャンマーやカンボジアといった周辺諸国からの出稼ぎ労働者人口の減少も問題を深刻化させている。
ミャンマーは来年、東南アジア諸国連合(ASEAN)の議長国を務めることが決まっており、宿泊施設の建設ラッシュが続くなど経済が過熱。同国政府は出稼ぎ労働者に帰国を呼びかけており、これが間接的にタイの労働力問題に影響を与えている。カンボジアでも工業団地の整備が続くなど出稼ぎによる外貨獲得策の見直しに本腰を入れている。
好調が続く一方で、人手不足という新たな問題が顕在化してきたタイ経済。この足元の問題にどう対応していくかが改めて問われている。
発信元: http://www.sankeibiz.jp/macro/news/121211/mcb1212110501001-n1.htm